君は誰のために勉強しますか?
- 学習塾 Baker Street
- 2021年2月15日
- 読了時間: 13分
皆さんこんにちはこんばんはおやすみなさい、個別指導部の塩崎です。
文章を書くという僕が大好きな作業を近頃できていないのがもどかしい限りです。
前にもお伝えしたことがあるのですが、僕は前に勤務していた塾で教室長を任されていたのですが、そこでは毎週ブログを書かないといけなかったんですね。なんでそこで書き溜めていたことを今回も放出させていただこうと思います笑
今も探せば出てきてしまいますが、まぁたぶん大丈夫でしょう(前も言ったなこれ)。
もう彼是7年前ぐらいの記事ですので、一部現状と合わない部分もあるかもしれませんが、そのあたりをご承知の上でご一読ください。
******************
(前略)
枕について話をすると、一万円札でお馴染みの福沢諭吉はとても興味深い枕エピソードを持っています。彼が日本の近代医学の祖と言われる緒方洪庵の書生だったころ、諭吉は緒方の塾で(福沢諭吉も塾に通ってたんですよ!!)誰も右に出るものはいないというほど猛烈に勉強していました。そんな彼がある時、熱をだしてしまいます。これはいかんと思い布団で眠ろうとした諭吉ですが、何故か枕がないことに気がつきます。
よく考えればそれもそのはず。諭吉はそのころ、昼夜を問わずひたすら勉強しており、眠くなったら机に突っ伏して眠っていたので、寝具をつかって寝るようなことが一切なかったというのです。
これに似たようなエピソードは、諭吉と同じ世代を生きた吉田松蔭や、世代は彼らより後になりますが田中菊雄などにも見られます。菊雄は諭吉さながら昼夜を問わずの勉強で眠るときは机に突っ伏し、さらには五年もの間、片道8キロかかる英語講師の元に徒歩で通い続けたそうです。
なぜ彼らはそこまでして、身を粉にして勉強できたのでしょうか。
それが、僕が今日伝えたいテーマです。
なんのために勉強するのか。 これについてはまたいつかblogに書きたいと思っています。
今日は少し質問を変えたいと思います。
人は誰のために勉強するのでしょうか。
自分のため。
これが、よく耳にする回答です。 生徒も、保護者さまも、先生も、だいたいこう答えます。僕の経験上ですが。それが間違っているとか、おかしいとか、そんなことを言うつもりはございません。でも、ただ考えてほしいのです。福沢諭吉が、 田中菊雄が、吉田松蔭が、枕が必要ないぐらい、まさに身を削ってまで勉強に明け暮れていたその理由が、「自分のため」なんていうそんな利己的かつ陳腐なものだったのでしょうか。
僕は違うと思います。もちろん、自分のためでもあったと思います。実際、勉強は楽しかったと諭吉も言っています。でも、もっと大きな理由が、彼らを勉強にかり立たせたもっと壮大な動機があったと思います。
世のためです。
国のためです。 人のためです。
ペリー来航から明治維新、西洋の圧倒的に優れた学術を目の当たりにし、一日でも早く日本を西洋に負けない国へと成長させるために、彼らは奮迅奮闘したのではないでしょうか。だって、彼らは肌で感じていたはずだからです。はやく成長しなければ、すぐにでも日本はどこかの国に飲み込まれてしまうという緊張感を。事実、吉田松陰は国のあるべき姿を主張し続け、幕府によって30歳で斬首されました。彼が獄中で弟子の高杉晋作に送ったといわれるのが、かの有名な名文、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」です。
勉強は自分の為にするもの。 それはそれで正解ではあります。
いい学校に出て、いい会社に就職して、社会的地位を確立して、そのために勉強が大事なんだと。僕もそれに反論する気はありません。でも、それはとても狭い視野での、一面的な事実でしかないと僕は思うのです。少なくとも福沢諭吉は、そんなことのために勉強したわけではありません。
**************************************
「ソレカラ考えてみると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行く末ばかり考えているようでは、修行は出来なかろうと思う。さればといって、ただ迂闊に本ばかり見ているのは最も宜しくない。宜しくないとはいいながら、また始終今もいう通り自分の身の行く末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したら金が手に這入るだろうか、立派な家に住むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を食い好い着物を着られるだろうか、というようなことにばかり心引かれて、齷齪勉強するということでは、決して真の勉強は出来ないだろうと思う。」
『福翁自伝』 岩波文庫 1978 – 94貢
***********************************
もし勉強は自分の為だけにするものであるなら、学校は必要ありません。塾も必要ありません。勉強が自分の為のものなら、それを他人に教える機関は生まれるはずがない。
勉強は世のため人のためにするものです。 そんな妄想的な使命感に支えられているのが勉強ってものなんです。
だから勉強は、人によって人に教えられるのです。
もし勉強は自分の為にするものなら、それを他人に教えるリスクはあまりに大きい。
もし勉強が自分の為のものなら、自分が勉強するより他人の勉強する機会を潰す(あるいは教育の機会を自分たちで独占する)方が効率的だという考えがまかり通るはずです。実際、そういう考えは存在しているようですが(ティーパーティー運動で有名なリバタリアンと呼ばれる人々は、どちらかというとそういう考えに近いです)。
でもそうじゃない。そうじゃないから福沢諭吉は『学問のすすめ』を書いたんです。世のため人のために、学問をすすめたんです。そうすれば日本がより良い国になると信じて。勉強は、自分のためになります。間違いないです。諭吉だって認めています。でも、そういう内向きで閉鎖的な動機だけでなりたっているものではないのです。
教育とは、自己利益のために存在しているものではありません。子供たちを成熟した市民として既存社会に送り出し、それによって社会を持続・発展させるために、存在しているのです。もちろん、僕はこれをわざわざ生徒や保護者さまに語り歩いたり、この考えを押し付けるつもりはありません。勉強の動機がなんであっても、どんな考えでも僕は歓迎します。いい高校・大学に行きたいから、こんな仕事につきたいから、テストでいい点取りたいから、自分の目標を達成したいから。
うん、全部すばらしい! 僕は全力で応援します。
でも常に、僕は自分の胸にこの思いを秘めて教室にいます。
勉強は、世のため人のためにある。
いい高校・大学に行って、テストでいい点とって、お父さんお母さんを喜ばせてあげたいから。
こんな仕事について、こういうふうに人の役に立ちたいから。
お金稼いで、自分の子供にいい生活させてあげたいから。
こんな風に。
「自分のため」の先には、必ず「誰かのため」があるんだと、僕は信じてます。
だから僕は、誰かの為に勉強したいと思える心を、生徒の皆さんに育んでほしい。
その種だけでも植えたいと思っています。
そりゃ、勉強してくれるなら、最終なんでもいいです。自分の為オンリーでも、なんとなくでも、楽しいからでも、いやいやでも、させられてるからでも、なんでも。ほんとに。でも、勉強したくない、別に自分の将来なんてなんでもいい、かったるい。そんなお子さんもたくさんいます。僕がそうでした。
彼らに少しでも
「でも、まぁ教室長のために勉強ちょっとがんばるか」 「あんまひどい点とったりしたら教室長に悪いし、まぁやったげよかな」
そう思ってもらえるような教室長でありたいですし、そんな心を育める教室にしたいんです。そこに当てはまるのが教室長であろうと、講師であろうと、お父さんお母さんであろうと、学校の先生であろうと、別に誰だっていいんです。でも、誰かのためなら勉強できる。誰かのためなら、いつもよりちょっと頑張れる。
そんな風に思えるって、素敵じゃないですか。
そんな気持ちを応援してあげたいと、大切にしてあげたいと僕は思います。
だってそれって、すごく、すごく美しくて、素敵ですもん。
それで枕が見つからないぐらい勉強できるなら、なおさら素晴らしいじゃないですか。
自分のためだからがんばれる。
うん、すばらしい。
自分のため?そんなのどーだっていいし。将来とかわからんし。やりたいことなんてないし。
そっか。
でも、誰かのためなら、あの人が喜んでくれるなら、がんばろっかな。
お、それって凄く素敵だね。
というわけで、教室ではなかなかできない、教室長の塩崎が胸に秘めている話、これからもblogではちょくちょく書かせていただきたいと思っています。
なお、当校では机に突っ伏して眠るのは厳禁です。
****************************
いかがでしたでしょうか。7年前の僕が書いた戯言は(笑)。でもね、30代手前になった今こうして振り返ってみても、やっぱりこの気持ちは変わりません。
実はこの文章には裏話があって。このブログを書いた後、急に上司から電話がかかってきたんです。
そしたらね、「勉強は自分のためにするもんやろ」って。びっくりですよね。いや別にあなたがそう思われるのならそれで全然いいんですけど、ブログ内容にまで口出してくる?みたいな(笑)
はじめにそう電話してきた人は僕の直属の上司で、たぶんそんなに本気じゃなかったんですよ。黒幕がいて、その人に言われてとりあえず対応してるんだろうな的な。電話してきた上司は僕もお世話になっていた人だし、まぁたぶんこの人はそんなこと押し付けてこないだろうなと思ってたんで、とりあえず穏便にはいはいって言って電話を切ったんですけど、悔しいからすぐにまたブログを書いて、なぜ人は人のために勉強するのかを論理的に書き連ねました笑 面と向かって言えないならこっちもそれでいくぞと。また今度そちらも紹介しますね。
結局のところ思っていた通りで、次の会議で黒幕が直接言ってきたんですよ。勉強ってのは自分のためにやるもんだと。わけのわからんことを抜かすなと。
僕はそれを突っぱねました。「僕はそうは思いません」と。まだ22歳の新入社員だったんですけどね(笑) で、なぜ僕がそう思うかをブログで書いたからそれを読んでくれと。「お前は俺にそれをわざわざ読めっちゅうんか」みたいないい方されましたけど、はっきり「そうです」と。
幸いなことに、その人はそれ以降、ぼくに突っかかってくることはありませんでした。むしろ、しばらくの冷戦期を超えてからはなんか認めてくれましたね。まぁ数年後にドン引きレベルのセ〇ハラしでかしてクビになってましたけど。
この一連の騒動は、なんというか、結局そういうこと言う人はそういう人なんだなって腑に落ちた経験でもありました。
漫画や映画・小説は、「利己的な動機で利己的な目論見を果たそうとする人間は、必ず『誰かのために戦う』人間にその野望を打ち砕かれる」という教訓を僕らに示してくれます。で、自分でいうのもなんですけど、僕はそれなりにこうしたものを嗜んできた人間だと思うんですね(木村ほどではないですが)。
そんな僕には、「自分のため」に発揮されるパワーより「誰かのため」に創造されるパワーのほうが圧倒的に強いということはあまりに明瞭な真理として心に刻まれているわけです。で、そういうことを教えてくれる話ってごまんとあるわけじゃないですか。誰もが知ってるような名作が。なんでもいいんですけど、例えば『北斗の拳』とか『花の慶次』とか『蒼天の拳』とか(偏りがすごいな。『ハリーポッター』とかでもいいですよ)。
なのになんでジャギみたいなこと言ったりしたりする人がいるのか、僕には到底理解できないんです。いや、どんな社会にも彼のような悪は存在する、という事実は当然理解できるんですけど、でもなぜ、世の中にはこんなにも素敵な物語が存在するのに、そこから何も学ばずジャギやアミバの化身になる道を選ぶのか。なぜケンシロウを目指さないのか。それが本当にわからない。
だってケンシロウが子どもに言いますかね、「俺は自分のために北斗神拳を極めたんだ」って。だから人のために鍛えるなんて馬鹿なこと抜かすなって。
いやまぁ確かに、レイはマミヤに、お前はもっと自分のために生きろ的なことを言いますけど、それはそもそもマミヤが自分を犠牲にし(以下略)
一応お伝えしておくと、僕も「自分の為に」という言葉を使うことがあります。でもそれは、そうして勉強という行動をいわゆる投資と利益的なシンプルなスキームに落とし込んだ方が、まだ市民的成熟度が高くない子供たちには伝わりやすいことがあるからという経験則を持っているからです。ただそれだけ。それでもあんまり使わないですね。基本的に禁句な気がします。
なぜ人は勉強するのかという哲学的問いに、いや、実際にはただそう見せかけただけの、なぜ「僕・私」は勉強「しないといけない」のかという子供の問いに、僕が答えることはありません。その質問の意図が、ただ答えようがない問いを投げかけて大人の誤謬を露呈させたいという幼児的ものである限り。
子供がたびたび投げかける、こうした答えようのない問いを、ラカンは「子供のディスクール」(子供の問い)と呼びました。
幼児性というのは、「自分は被害者である」という前提から抜け出せない性質のことだと僕は思っています。
人は「すでに始まっているゲーム」への参加を強制させられます。人生という名の。
僕たちははじめ、そのルールも知らなければ攻略法もわからない。なんなら中にはあまりに理不尽なルールだってある。
そして、誰しもが「なぜ自分はこんなめちゃくちゃなゲームに参加させられないといけないんだ」と恨めしく思う時期を迎えます。
そこからある程度ルールがわかってくると、今度は自分がそのゲームでうまく立ち回ればいいと思う人がでてくる。悪く言えば、人を出し抜いたってこのゲームで得すればいいと思うようになる人が出てくる。そして彼らの根っこにあるのは、「それの何が悪いんだい、だってこっちは被害者なんだから」という被害者意識です。
僕はね。「こんなゲームにしてしまった責任は『僕たち大人』にある」と思うようになるのが、人として最も素敵な成熟の仕方じゃないかなって思うんです。
自分を「大人」と定義しなおすということは、自分を社会が抱える問題の「被害者」であるという前提条件から抜け出すということです。その責任の一端を自分も担っている妄信することです。
そして、それは自らの意思で踏み出す一歩なんです。ライ麦畑のホールデンのように。時計仕掛けのオレンジのアレックスのように。自分で自分を大人だと定義する。大人としてふるまう覚悟を決める。
僕は、それが人間的成熟というものではないかと思っています。
そして、教育の最も大きな目的というのは、子供たちを成熟した市民へと育成することです。少なくとも、その基礎を築くことです。
だから、僕は世のため人のために勉強しています。世のため人のために勉強を教えています。具体的にどういうことだとか、それで何の意味があるんだとか言われても知ったこっちゃありません。そんな愚問には答えないし、答える義理もない。
僕たち大人にできるのは、子どもたちに教育の機会を与えてあげることだけです。そこで何を学ぶのか。それを見つけるのは「そこで学ぶ子どもたちの仕事」です。
何のために勉強するのか。それは勉強した後で、事後的にしか知り得ません。買う前から用途も性能もそれを買ったらどんないいことがあるかもわかっている「商品」とは違います。なんの役に立つかもわからない、どんな能力が身につくかもわからない、どんないいことがあるかもわからない、そういう状態でしか「人は学ぶことができない」
だって「学ぶ」ということは、「知らない」ということでしょ?
つまり、知らないという状態でなければ学べないんです。無知でなければ学べないんです。当たり前ですけど。そして知らないんだから、それがなんの役に立つかも、どんないいことがあるかもわかるはずがない。
それは学んだあとにしかわかりようがない。 それが「遅れてゲームに参加するプレイヤーの宿命」なのです。
んー、納得いかない?でもね、今勉強している皆さんは、実はもう知ってるんですよ。なんで勉強するのか。気づいてないだけで。
世のため人のために何かを教えたいという人がいて、それを学ぶことを使命づけられた皆さんがいる。だからもう、気が付くのは時間の問題です。
ほら、ケンシロウも言ってるでしょ?
お前はもう、知っている。
なんてね。
Comments