去るホームズに捧げる。
- 学習塾 Baker Street

- 1月31日
- 読了時間: 8分
更新日:2月5日
その日、ぼくは初めて「先生」を見た。
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学校という組織は嫌いだったくせに、結構な先生っ子だった。矛盾しているようだが、振り返ってみるとなんてことはない。大人の愛に飢えていたのである。
母子家庭で育った。父親の記憶はない。母は夜の人だった。彼女は熱狂的な阪神タイガースのファンだったが、ぼくは巨人ファンになった。毎日ベビーシッターとして来てくれていたおばさんがそうだったから。当時の僕は、母親より彼女とよほど長い時間を過ごした。
時には彼女にも叱られることもあっただろうが、ほとんど覚えていない。簡単に言うと甘やかされていたのだろう。そんな僕にとって、学校の先生は単に気にかけてくれる大人というだけでなく、時には叱り、指導し、導いてくれる貴重な存在だった。
今思えば、別に大したことはされていないようにも思う。でも、気にかけてくれて、心配してくれて、ときに情熱的に𠮟ってくれて、いつも怖いくせに急に「君はいいものを持ってるから」なんて泣かせてきて。
だから教師たちは、ぼくにとってただの先生ではなかったのだ。
「先生になりたい」と初めて思ったときのことを今でもよく覚えている。中学三年生、とんでもない反抗期の真っただ中で、母親のことが疎ましくてたまらなかった。学校にも、あまり行っていなかった。
それでも、先生になりたいと思った。
当時の担任やそれまでよくしてくれた先生たちにあこがれたから、と素直に言えたらきれいな物語になるのだけれど、どちらかというと、「自分みたいな子供のことを俺ならもっと理解してあげられるのに」と思ったからだ。
先生たちのことは、好きだった。でも、「大人」という存在が憎かった。最も身近な大人が憎かったから。だから先生も、憎しみの対象ではあった。そんな矛盾が、僕の「先生」への執着をより強くしたのかもしれない。今思えばの話だけれど。
時は流れて。
ろくに学校にも行っていなかった子供にとってただの夢物語でしかなかった先生という職業が、現実的な選択肢になる程度には大人になったころ。
僕は教師にはならず、塾に就職した。
とってつけた理由をもっともらしく言うことはできるけど、正直に言えば成り行きである。当時の僕は、それを「教員免許を取るまでの修行」と呼んでいたけれど。
ともかく、「こんなのがまがいなりにも教育に携わっていいものか」と憚られるレベルの人間が、塾という業界に足を踏み入れた。学校で習ったことなんて全部忘れていたし、というかそもそも学校にはそんなに行っていなかったし。
でも、意外と何とかなった。
√(ルート)を見たのは5年ぶりぐらいだったし、酢酸(さくさん)を「すさん」と読んで赤っ恥をかいたし、当時は得意だと自負していた英語ですら、今思えばど素人に毛が生えた程度でしかなかったけれど、それでも何とかなった。
何とかなっている、と思っていただけだったから。
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研修が始まって半月ほどだったと思う。1か月だったかもしれない。教室の子供たちとはもうとっくに打ち解けていた。若かったから、というのも大きかったろうし、子供に自分からざっくばらんに話しかける程度の明るさは身につけていたし。
だから、何とかなっていると思っていた。授業は答えを見ながら、ノリでなんとかごまかしていた。信じてくれないかもしれないが、巷の個別指導チェーン店は、「教え方」を「教えてくれない」のである。「教えられて当たり前だ」という業界だからかもしれないし、「そんなことどうでもよかった」からかもしれない。入塾につなげるトーク術だとか講習授業の押し売り方だとかはやたら教えてきたけれど。
研修先の教室長は、着物を押しうる会社の営業でキャリアをスタートさせた人だった。教育畑の人ではなかったけれど、今思えば、それがよかったのかもしれない。とても教育者と呼べる状態にない僕をおおらかに見守って、子供たちとわいわいきゃっきゃできるだけの若造を、「それが大事だ」と認めてくれた。
だから、何とかなってると思ってた。
意外と楽なもんだな塾講師なんて、とも思っていた。
そんなとき、僕は初めて「先生」を見た。
彼は、僕より5歳ほど年上の大学生講師だった。教室長から「エースがいる」とは聞いていた。研修初めの数週間、僕は「エース」に会えなかった。大学の試験の関係でお休み中だったらしい。
僕は大学を出たばかりだったから、研修先のアルバイト講師たちはほぼ同世代だった。賢そうだな、とは漠然と思ったけれど、それだけだった。先生には見えなかったし、なんなら「子供の扱いは俺のほうがうまいな」なんて思っていた。
教室長はいい人だった。授業を担当することはまずなかったから、先生ではなかった。上司としては、今なお尊敬している。
その日、エースがいた。どんな人かはおろか、顔も名前も知らなかった。名前は聞いていたと思うけど、覚えていなかった。書いていて思い出したけど、ちょっと変わった人だといわれた気がする。ただ、その程度だった。でも、見た瞬間分かった。
この人があのエースだということも
そしてこの人が、この人だけが「先生」だということも
子供だった僕にとって先生が「先生」だったのは、彼らが大人だったからである。僕が子供だったからである。僕が彼らに「親」を見ていたからである。なかった、とは言わないが、不足していた親からの愛や親への尊敬を、彼から補填しようとしていたからである。だから、先生は僕にとって無条件に「先生」だった。
同世代の塾講師に、そんな感情を抱くわけもなく。
もちろん、新入社員なりに一生懸命に学ぼうとはしていた。だから、授業もよく観察していた。「なるほどこういうものなんだ」と思った。それ以上でも、以下でもなかった。
エースは違った。明らかに「先生」だった。夏休み中の、中3生向けの歴史の授業。中学歴史が終わり、公民に切り替わる直前ぐらいの時期。だから、世界大戦やその後の話を学び終えたぐらいの時期である。今なら当たり前にわかる話。でも、当時は何もわかっていなかった。だからエースが冷戦の説明をしはじめたとき、「こんな時期のこと学校で習っけ」なんて思っていた。
何が違うんだって、そりゃ言葉にすることはできる。説明はわかりやすいし、生徒への投げ方もうまい。でも、それだけじゃない。教室中にとおる声?溢れ出る自信?言葉にした途端、ちんけに聞こえる。足りない。違う。しっくりこない。
ホームズ。
史上もっとも著名な探偵の名。そうか。「緋色の研究」でホームズに初めて出会ったときのワトソンの気持ちは、こんな感じだったんだ。
と、そのとき直感的に思ったといえたらこれまたきれいな話なんだけど、これはさすがに後付である。
でも、少し経ってからあのときのことを振り返ったときに、数年後にあのときのことを思い返したときに、今こうして彼に捧げる言葉を紡ぎながら改めて思い出してみたときに。
僕のうちから漏れる言葉は、やっぱり「ホームズ」なのである。
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ともに学習塾Baker Streetを運営してきた木村 泰隆が、2026年の3月をもって退職することになった。4月かもしれない。ちょっと今、細かいことには頭が回らない。
「もし君と僕が一緒に塾をやることになったら、名前は『ベイカーストリート』にしようよ。だって君はホームズで、僕は凡人のワトソンだから」なんて冗談を、会社を経営することが夢物語にしか思えない程度に世間知らずだった若かりし頃の僕の夢を、たなぼたというかひょんなことからというか思いがけずというかその全部というか、ともかく叶えてくれた彼に、心から感謝を述べたい。「別に俺が叶えたわけじゃない」というのはそりゃその通りなのだけど、それでも述べさせてもらいたい。
一見ホームズより常識人そうに見えるのに女ったらしでちょっといい加減なところもあるワトソン同様(どんな言い訳や)、僕の人間的な未熟さのせいで何度も迷惑をかけたと思う。本当にごめんなさい。
君にあこがれて、僕は「先生」になろうと思えた。君に負けないように、たくさんの本を読み、映画を見て、教養に触れ、勉強した。
「エース」こと、「先生」こと、そして「ホームズ」こと木村 泰隆は、2026年の春をもって学習塾Baker Streetを去る。生徒保護者にとってこんな文章に何の意味もないし、下手したら「先にやることがあるだろ」なんて言われるかもしれない。
知ったこっちゃない、と言えればかっこいいのだけれど、そりゃまぁその通りでしかないので。だから誰にも言わず、どこにも知らせず、数年間更新していなかったこのブログ欄に、できる限りひっそりと、君に捧げる言葉を紡ぎたいと思う。これぐらいのわがままは、許してもらいたい。
僕はあの日、初めて「先生」に出会った。
親代わりの先生じゃない。子供の寂しさを埋めたりわがままに付き合ってくれたりする大人、という意味の先生じゃない。
教育者としてのあるべき姿や、身に着けるべき教養や知識、接し方や振る舞い、そして教え方。それらを教えてくれる、本当の「先生」。
いや、なんかもっともらしいことで締めようとしたけど、違うな。やっぱりホームズがコナン(江戸川のほうね)にとってのヒーローであるのと同じように、君は僕の憧れなんだ。
こんな人になりたいっていう。
今も、これからも。
6年間ありがとう。
この塾が存続し続ける限り、君の名をこの塾のどこかに残し続けたいから。
僕はこの拙筆を、満腔の敬意と感謝をそえて、去るホームズに捧げるのである。
学習塾Baker Street
代表:塩崎 匡兵


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